エセイカ東の思考整理
21歳、東大生。東大生に多いであろう僕のちょっとした、言葉にならない普遍的な病気。 これに僕はエセイカ東病と名付けます。僕の症状に心当たりのある方、教えてください。どうやってその傾向と付き合っているのか。理想的な生き方のバランスとは。 思考整理と、自分の腹を見せてしまうこと、けなされること。それも目的。 ツイッターでも言えない、ゴミのような思考をここに捨てていきます。
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
・思考停止・行動のなさ
指示されたり、やらなきゃいけない場であれば動けるが、そうでない休日とか、きょうなんかそうだったが、何もできないことが多い。やらなきゃいけないこと、考えれば思いつくだろう。集中してやればはやく終わるだろう。しかし結果としてやっていない。ちょっと時間を無駄に過ごすと、「ああもう13時になっちゃった、今から家出てもなあ、どうせ大したことできないしなあ。」
とか考えて、それを考え続け結局1日中何もできなかった。それには後悔の思いがある。またやってしまった。しかし、「どうせ今から急いでも今日は大したことできない。それに頑張ってみても思ったほどのことはできはしないだろう。」とか考えると今から急ごう、という気にならない。
それについては、「今まで勉強を「やらされる」受け身の姿勢でやり続けてきた、ただそれだけだったから、自発的に行動する力を著しく欠いているのか」などということをよく考える。
・オークション、趣味の収集品がつい気になって何度も見たりする。ああ、今見ても意味ないなとか思いつつもなんとなく見てしまう。後悔の念がわく。これで苦しんだ。
今日みたいに、その後悔の念も、なんとなく心の片隅にあってそれをぼんやり眺めるような感覚になることも多い。思考停止に近い。
・対人恐怖、女性恐怖も、「仲よくしなきゃ」「よく思われなきゃ」と思うところからきているんだろうな。
それに、こういうことを総合的にみて、「こんな状態の自分には彼女などと付き合えないな。」
なんて思ったりする。
・こんなことを考えていると、それは「逃げ」なんじゃないか?という思考も出てきて、それは自分自身でもそういう感覚があるから、苦しい。そういうことを人に言われたら、そうなのかも、と思って苦しいだろうね。
こうして調べているうちに、「自分は病気なんだから」という認識が強くなってきてか、精神の状態がちょっと悪化した気がする。病気への依存。薬物療法だけやったとしたら依存してしまうだろうな。一般論として、ただでさえ病んでるような人が薬物療法だけやったら医者・薬に依存してしまうのは目に見えているよな。
しかし、こう見てみるとさまざまな問題の精神的な根源は不安と強迫(失敗する不安と完璧にで、思考に不都合な癖がついてしまっている、とみることもできる。それを順序良く直していきたい。そして、その順序にも完璧さを求めてしまう。世の中には味わった分だけ成長につながる苦労と、味わっても、「それは徒労だったということの認識」、くらいしか得るもののない苦労、というものがあると思っている。前者ばかりを集めて、順序良くこなしたい、それを知るまでは行動に移したくない、という思いがある。
・カウンセリングに行くにあたっても不安がある。話してもわかってくれないのではないか?自分の状態とその治療法がわからないのではないか?適当にあしらわれるのではないか?徒労に終わり、この状態がよくならないという悪いビジョンがさらに力を得てしまうのではないか?
こうした不安から、今こうして自分の精神状態を書き出して、説明の助けにしよう、とか思っているところがある。完璧主義と失敗への恐怖が悪い状態に結びついている。
・私はいまこうして自分の精神状態を書き出そうという意欲と力がかろうじてあるが、もっとひどくなった人ならそういう力もないだろう。カウンセリングに行くことにも相当な無期待をもっていて、実行になかなか移せないだろう。そういう人に対して、何もこちらから自分を説明をする必要はなかったよ!という体験談をしたい。自分からは話さず、質問に答えるだけで、多くを語らなくてもちゃんと理解して次の策を与えてくれるよ、ということを確認したい。だから、カウンセリングに行くときは、まずはこれらの記述は見せずに、受け身の姿勢からはじめて、自分の状態を把握できるかな?ということを試そう。
・こうして色々書いていることも強迫的な行為かな?という認識がある。
指示されたり、やらなきゃいけない場であれば動けるが、そうでない休日とか、きょうなんかそうだったが、何もできないことが多い。やらなきゃいけないこと、考えれば思いつくだろう。集中してやればはやく終わるだろう。しかし結果としてやっていない。ちょっと時間を無駄に過ごすと、「ああもう13時になっちゃった、今から家出てもなあ、どうせ大したことできないしなあ。」
とか考えて、それを考え続け結局1日中何もできなかった。それには後悔の思いがある。またやってしまった。しかし、「どうせ今から急いでも今日は大したことできない。それに頑張ってみても思ったほどのことはできはしないだろう。」とか考えると今から急ごう、という気にならない。
それについては、「今まで勉強を「やらされる」受け身の姿勢でやり続けてきた、ただそれだけだったから、自発的に行動する力を著しく欠いているのか」などということをよく考える。
・オークション、趣味の収集品がつい気になって何度も見たりする。ああ、今見ても意味ないなとか思いつつもなんとなく見てしまう。後悔の念がわく。これで苦しんだ。
今日みたいに、その後悔の念も、なんとなく心の片隅にあってそれをぼんやり眺めるような感覚になることも多い。思考停止に近い。
・対人恐怖、女性恐怖も、「仲よくしなきゃ」「よく思われなきゃ」と思うところからきているんだろうな。
それに、こういうことを総合的にみて、「こんな状態の自分には彼女などと付き合えないな。」
なんて思ったりする。
・こんなことを考えていると、それは「逃げ」なんじゃないか?という思考も出てきて、それは自分自身でもそういう感覚があるから、苦しい。そういうことを人に言われたら、そうなのかも、と思って苦しいだろうね。
こうして調べているうちに、「自分は病気なんだから」という認識が強くなってきてか、精神の状態がちょっと悪化した気がする。病気への依存。薬物療法だけやったとしたら依存してしまうだろうな。一般論として、ただでさえ病んでるような人が薬物療法だけやったら医者・薬に依存してしまうのは目に見えているよな。
しかし、こう見てみるとさまざまな問題の精神的な根源は不安と強迫(失敗する不安と完璧にで、思考に不都合な癖がついてしまっている、とみることもできる。それを順序良く直していきたい。そして、その順序にも完璧さを求めてしまう。世の中には味わった分だけ成長につながる苦労と、味わっても、「それは徒労だったということの認識」、くらいしか得るもののない苦労、というものがあると思っている。前者ばかりを集めて、順序良くこなしたい、それを知るまでは行動に移したくない、という思いがある。
・カウンセリングに行くにあたっても不安がある。話してもわかってくれないのではないか?自分の状態とその治療法がわからないのではないか?適当にあしらわれるのではないか?徒労に終わり、この状態がよくならないという悪いビジョンがさらに力を得てしまうのではないか?
こうした不安から、今こうして自分の精神状態を書き出して、説明の助けにしよう、とか思っているところがある。完璧主義と失敗への恐怖が悪い状態に結びついている。
・私はいまこうして自分の精神状態を書き出そうという意欲と力がかろうじてあるが、もっとひどくなった人ならそういう力もないだろう。カウンセリングに行くことにも相当な無期待をもっていて、実行になかなか移せないだろう。そういう人に対して、何もこちらから自分を説明をする必要はなかったよ!という体験談をしたい。自分からは話さず、質問に答えるだけで、多くを語らなくてもちゃんと理解して次の策を与えてくれるよ、ということを確認したい。だから、カウンセリングに行くときは、まずはこれらの記述は見せずに、受け身の姿勢からはじめて、自分の状態を把握できるかな?ということを試そう。
・こうして色々書いていることも強迫的な行為かな?という認識がある。
PR
| HOME |
カウンセリング続き>>
この記事へのコメント